日曜日,霊能者に会いました。
といっても,なんていうか,普通にイメージするような霊能者(故Gボさんなど)みたいなのではなく,本職は新川にあるとある神社の宮司さんです。
いきさつはというと,とあるオーストラリア人(って名前すでに出てるから伏せる必要ないんだけど,なんとなく)に紹介されたわけで,神社の事務所にお邪魔してコーヒーやら(なぜか)揚げたてのコロッケなんかをご馳走になりながらしばし歓談いたしました。
最初は雑談だったんですけどね,ぼくが「液晶ディスプレイの研究やってます」みたいな自己紹介をしたあと,話は徐々にあちら方向へ。
いわく,
「わたしはね,見えるんですよ,あちらの世界が。目の前にはっきりと」
から始まって,
「とある工事現場に地鎮に行った時に,古代の人が出迎えてくれて…」
とか
「お城に行くと,城の人が当時の格好で案内してくれるんです」
などなど。さらには
「22世紀の科学は霊界との融合が必要で…」
と続きました。
字面だけ拾うと,率直に言って「うわっ」っという感じですが,その宮司さんがぜんぜん嫌味の無い人だったので,ぼく個人としてはそんなに嫌な印象を受けるということはありませんでした。もちろん,話を額面どおりに受けることは出来ませんでしたが。
さらに,「Aさんね(ぼくのこと),神さんがね,『液晶の研究している際に指先の怪我に気ぃ付けなさい』って言ってますわ」と預言されました。
さて,ここに事実として一つ言えることがあります。それはぼくがクリーンルーム内で液晶実験セルの作製をする際にさまざまな機械を扱う上に,注射針を扱うことが多々あり,また一ヶ月ほど前に不注意で配向膜ワニス入りの注射針を指先に刺してしまったことがあったということです。
ぼくは宮司さんに,「確かにこの間指先を怪我しましたし,危険なことは多いですね。気をつけます」と答えました。
その預言を受けているとき,一緒のオーストラリアンは日本語はある程度は分かるけど複雑な話だもんだからついていけなくて,「ねぇ,何を言われてるの??」とぼくに尋ねて来たので,こういうこと言われたんだよ,んで確かにぼくはこの間指先に注射針を刺しちゃったんだよ,と答えました。当然「すごい!!当たってるじゃん」となるわけです。
一つ目の問題。では宮司さんの預言は正しいのか。
結論から言うと,正しいとは言えません。
なぜか。
ぼくは確かに指先を怪我しましたけども,ぼくがそのことを伝える前に,宮司さんは「電気がびりっと流れるような,そういった怪我。電気関係」といっていました。至極曖昧です。
ぼくは「電気で怪我をするよ」と言っていると捉えました。でもぼくが怪我をしたのは電気のせいではなく,注射針を刺したからです。
ぼくはその宮司さんの「電気で」という言をわきまえた上で,あえて「確かにこの間注射針を刺しましたね」と答えました。『だって,注射を刺しても電気が流れるような痛みがあるでしょ?』というところです。
預言者側は曖昧な言い方をしているのに,確かにあなたの言っていることは当たっているね,と聞いた側が勝手に相手に沿うように解釈をしなおしてしまう。
これは,『コールド・リーディング』と言われる霊能者の会話の手法に乗っかっているということです。
ぼくはえらそうにも,そういうことを知っておきながら相手に話を合わせてみた。
ここで,一つどうしても言っておきたいことは,ぼくはそういう手法を暴き立てて溜飲を下げたいとか,そういう意図はさらさらないということです。
宮司さんは地元で重要な役割を果たしています。それが彼本来の仕事だから当然といえば当然で,もしその宮司さんがそのような預言で人を惑わせたり,お金を稼いだりしているなら,ぼくの対応はまったく違ったものとなっていたと思います。その場で全力で相手をつぶす行為に出ていたかもしれません。そうなったら大変面倒くさい事態ですが。
しかし,ぼくはその日初めてその宮司さんにお会いしましたし,紹介してくれた方の手前でもあります。そんなことをいきなりするほど気が強くはありません。
それに宮司さんが嘘を言っているようにも見えなかったし,あえてぼくを混乱させるというような悪意も見えなかったので,そのまま話を沿うように持って行きました。
さてここで二つ目の問題です。ぼくの態度は正しいか。
これは,難しい問題です。
ぼくの信念としては,霊界というような超自然的存在は一切認めないし,そういうことを認めるのは生命の尊さに過剰な価値を付け加える行為であって,そういう存在を前提としなければ自分や他者が生きていることを認められない,最終的には自分可愛さにつながる力の無い思想だと思っています。
一方で,そのような存在を否定・排除することが,(現時点では)人間の文化の大事な部分を破壊する行為であることも分かっています。墓参りの無い日本なんて,さびしい。
だから,そのような行為・習俗・文化をかなりの程度無条件で尊重します。…もし,そのような側の人々が科学や科学に従ずる者を過剰な唯物主義として不当に攻撃することをしなければ。
これは,ドーキンスの批判するグールドのNOMA原理(Non-Overlapping magisteria)という「穏健な無神論者」に近い態度ですね。
といっても,前にも書いたとおり,ぼくは実のところ,立場としてはドーキンスに全面的に賛成です。宗教や超自然的なことを信じるのは有害であると思っています。
だから,難しい。
目の前に居る人を相手にして,その人が悪意が無く,またその言に救われている人がいるのに,そこを乗り越えて大批判を展開をすることは相当な犠牲を伴います…
結局のところ,ぼくはまだドーキンスほど腹が据わっていない,ということですね。
最後に,ぼくは確かにその宮司さんがすごい能力を持っていると思います。
おそらく,その方は半ば無意識に,ぼくの開示する限られた有形・無形の情報を瞬間的に察知し,そこからぼくに当てはまりそうなことを選択してしゃべるということを行っているのでしょう。
これは誰にでも出来ることではありません。訓練すればある程度可能かもしれませんが,自分自身をだまさなければ,ぶれない態度でそのようなことを言い続けることは難しいでしょう。
それは,ある種の超能力といっていいと思います。
超自然的な現象を前提としなくても,解釈できる能力ですが。
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