ぼくは,大学院を博士課程まで修了し,物理学に関する博士論文を書いて博士号を取得し,現在物理学科ではないが工学系大学工学部の大学教員をしながら主に液晶ディスプレイの研究をしているので,現時点で物理学に関して専門家であるといってよいと思います。少なくとも,他人はそう思うでしょう。
さらに物理学は自然科学,それも非常にど真ん中(?)な自然科学だと,自然科学他分野の専門家からさえも思われているので(確かにぼく自身もそう思っているから物理を専門として選んだ面は大きい),ぼくはより広い意味での「自然科学」の専門家であるとみなされると言ってよいと思います。
さて,そのようなぼくが,地球温暖化問題に対してどういう見解・態度を持つべきか。特に「二酸化炭素増加は人為的なものか」問題についてどういう見解・態度を持つべきか。ここ最近そのようなことを考え,答えを出すためにいろいろと調べております。
なぜそのような問題提起を自ら行うにいたったのかというと,地球温暖化問題は「科学的事実」が日々の生活を含むすべての政治・経済に直接影響を与える重要な問題であるからであり,そのような問題に対して,ぼく自身は専門分野は違うけれども自然科学の専門家としてどう取り組むか,ということに興味を持ったからです。
ここでまず,ぼくが重要だと思い,言葉の定義をはっきりとしておきたい点は,地球温暖化問題を含め,すべての自然科学的な問題に対して「非専門家」には三種類あるということです。すなわち,
(1)自然科学,社会科学,人文科学を問わず,学問レベルでの専門性をほとんど持ち合わせていない非専門家
(2)社会科学,あるいは人文科学の専門性は持っているが,自然科学の専門教育を受けていない・専門性を持っていない非専門家
(3)自然科学の専門教育を受け専門性を持っているが,当該問題とは異なる自然科学分野の専門家
です。ぼくは(3)に当たるわけですが,(1)や(2)のかたがた,ことによると(3)に該当するかたがたでも,(3)を「非専門家」と呼ぶことに異論があるかもしれません。しかし,ぼくは物理学に関しては専門家ですが,地球温暖化問題に関しては非専門家です。ですので,(3)のかたがたも,(1)と(2)に並列しうる「非専門家」だと規定します。
(実際には(1)および(2)の専門の方々とは同じ意味での非専門家ではないのですが,それに関しては後述します)
そのように,「地球温暖化問題」という自然科学の問題に対して,広義の自然科学の専門家でも「非専門家」であることをはっきりと規定する必要があるとぼくが考えるのは,この問題の特殊性(というより問題の影響する範囲の大きさ)に起因します。それは繰り返しになりますが,この問題に対する旗幟を明らかにすることの社会的な重要さです。
ぼくの少ない経験から鑑みるに,大方の自然科学の専門家が日常取り組んでいる通常の科学的課題とは,それが最終的に人間社会の生活(政治・経済)に影響を与える,あるいは還元されるものであったとしても,それが取り組まれている時点においては現実社会とはそれほど密接なかかわりを持っていないと思います。少なくとも,物理学においては,研究結果について発表を行ったり論文を書いて雑誌に載ったとしても,そのことが物理の専門家ではない人(ほとんどの人がそうですが)に対していきなり影響を与えるものではありません。
しかし,地球温暖化問題については状況はまったく異なります。
地球温暖化問題は,専門家の発言が一般社会の非専門家に与える影響が非常に大きいと思います。
そして,何よりも先にここでぼくが問題だと思うのは,現在のところ,地球温暖化問題に関してはその専門家同士の意見の対立があって,それがある解かれるべき自然科学の問題という範疇を逸脱して,イデオロギー論争の様相を帯びているように見えるということです。
(物理学にはイデオロギー論争に近いものはありますが(高温超伝導のメカニズムなど),どの立場をとるかによって社会に影響が出るというような問題はぼくは思いつきません)
つまり,「地球温暖化は起きているのか」というもっとも大きな問題についても,「二酸化炭素増加は人為的なものか」という科学的には少し専門的だけれども社会的影響の大きい問題についても,全般的肯定派から,部分的否定派,部分的肯定派,全般的否定派まで,さまざまな見解・立場が存在しており,対立・論争を繰り広げ,メディアにも取り上げられている。もともとは自然科学の問題であったはずなのに,どういうわけか価値判断の問題になっています。
これは,困る。ほとんどの非専門家は困ります。実のところ(3)であるぼくも困っています。(…すいません,本当はあんまり困ってませんが。)
ぼくは,地球温暖化問題に対しては完全に素人です。専門的知識はそんなにありません。そういう意味では,ペットボトルをリサイクルすべきか,エアコンの温度設定をどうすべきか,スーパーのレジ袋を断るべきか,車で通勤することを止めて寒いけど自転車で通勤するべきか,日常生活の利便性と環境問題への対処というジレンマに悩む一般市民です。地球温暖化問題の科学的真実に関しては探求したいという関心は持っていますが,自分の専門の仕事もあり,なかなか十分な時間が取れません。
ですので,上記の「地球温暖化は起きているのか」および「二酸化炭素増加は人為的なものか」などについて科学的判断をすることが現時点ではできません。となると,地球温暖化問題に対する最初にとりうる立場としては,次の二つの選択肢が考えられます。
(A)「専門外なので分かりません」と言う。
(B)科学的真実とはいえない曖昧な根拠に基づきイデオロギーの価値判断をする。
(3)に該当するほとんどの自然科学の専門家は,自分の専門ではない科学的問題について(A)の態度を公式には表明すると思います。ぼくも高温超伝導現象のメカニズムに関しては完全に(A)を選択し,表明します。しかし地球温暖化問題に関しては,いかに自然科学の専門家といえども,その後の世代への影響を含む社会的影響の大きさから実際には(B)を行っている人は多いのではないかと思います。
さてぼくの場合はどうか。ぼくは(B)を選択しています。なぜか。それには科学的根拠がない。そのようなときはどうするか。それはもちろん,権威に頼ります。ここでいう「権威に頼る」とは,
「その専門家が主張している科学的内容を,周辺知識も含みすべて科学的に理解している(=主張の材料となる基礎的な科学的事実に関する十分な知識を持ち,かつその主張の論理的整合性の程度をすべて把握している)とは言えないが,この発言が正しいものだと受け入れる」
という判断・態度です。
ぼくの今のところの立場は,気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の権威,環境省の権威,国立環境研究所の権威に頼り,「地球温暖化(異常な気候変動)は起こっており,それは人為的な温室効果ガスの過剰排出によるものであり,すべての人間が日常生活レベルから政治経済レベルまでその削減に向けて努力しなければならない」→すなわち「死にたくなかったらリサイクルしようね」(うすた京介)を実践するということです。
三つの作業部会が提出した,合わせて3000ページ近くにもなるIPCC第4次評価報告書を全世界でいったいどのくらいの割合の人がすべて読んでいるのか知りませんが,ぼくはまったく読んでいません。となるとそこに潜む科学的問題点などをこの一次資料から見つけるなんてことは到底できません。
そしてさらに告白しなければいけないと思うのは,たとえぼくが自然科学の専門家であったとしても,他の自然科学分野の問題に対しては最初に価値判断を行い,その判断においてその道の権威に頼ることが多いということです。そういう意味ではぼくは自然科学の非専門家とまったく同じレベルです。いや,むしろ権威に頼るという点では(3)の定義に当たる非専門家として,(1)(2)の自然科学の非専門家よりもその傾向が強いかもしれません。
それはいくつかの理由があるのですが,最大の理由は,自然科学の専門家の「権威」というものが,その人個人に由来するものがすべてではなく,個々の内容をすぐさま科学的に理解できなくても,その発言が科学的根拠に基づいたものであるか否かの判定がある程度可能であるからです。
自然科学の専門家の発言には一定のルールがあって,それはたとえばデータの引用の仕方,他文献の引用の仕方,議論の仕方など,少ない言葉ではっきりと示すことがぼくにはできないのですが,そのような科学的発言を行う前提となるルールが必ずあります。
また,ある自然科学に関する研究結果を出すためにどれほどの努力が必要なのか十分すぎるほど知っていますし,自然科学の専門家同士の検証というものがどれほど厳しいものであるかよく分かっていますから,そのような背景からも,ぼくにとっては自然科学の専門教育を受けていない人の発言と受けてきた人の発言には権威には大きな差があります。
つまり,自然科学の専門家の「権威」というものは,その分野の過去のさまざまな研究・討論などから自然に醸成されてくるものです。ですから,ここで言っている権威とは,「○○大学の教授」とか「○○研究所の研究員」とか肩書きによる「権威」だけではありません。もちろんそれも権威の要素であることを否定するつもりはありません。そのような肩書きはその人が自然科学の基礎的訓練を受けてきたことを意味しますので。市井の自称専門家よりも大学の先生の方が専門家としての権威があるのは当然です。しかしそれだけではない。
いずれにしても,そのような一般的用語法とは少し異なるかもしれない「権威」は,(3)の方々のほうが上記の(1)や(2)の非専門家よりも強く感じるものだと思います。
ですから,ぼくは地球温暖化問題についても,自然科学の専門教育を受けていない人の発言よりも,受けている人の発言に重きを置きます。
(ぼくは,上記の定義の(1)および(2)に該当する多くの一般の非専門家は,専門家の権威に頼る態度をとっていると思います。だから経済的功利性を第一に追求すべき多くの企業も地球温暖化問題に取り組んでいるのだと思います。)
その「権威に頼る」という態度が良いのか悪いのか,というのは対象となる問題によりけりであることは明らかですが(常に良い・常に悪いなどあるわけがない),ぼくは自然科学の諸問題において(3)の非専門家がその道の専門家の権威に頼って探求をスタートさせるのはまったく悪いことだとは思いません。
なぜそう思うのかのひとつの理由としては,前述のとおり専門家の「権威」に対する専門家としての感性があるからです。今まで自分の専門外の自然科学的問題に対して知識がゼロのところから調べ始めて,権威を頼りに文献を読み進め,いくばくかすると直観的に何が正しそうか分かり,後でより深く調べて自ら最終的科学的判断を行った結果として今まで間違ったことがありません。ですので,ぼくは「地球温暖化が起こっている」および「二酸化炭素増加は人為的なものである」については,それが科学的にも正しい主張であると現時点では思っています。
また,ぼくは自然科学の専門家であって,そうではない(1)や(2)の非専門家と違う点としては,まじめに勉強すればある程度高度なレベルまで問題を理解することができるであろう,という点があります。
(もちろん(1)や(2)の方々が科学的諸問題の本質を理解できないと言うつもりはありませんが,自然科学に関する専門的・基礎的訓練を受けてきたか否かの差というのは,ちょっとやそっとの勉強で埋まるものではありません)
「権威に頼る」=「他人が考えたことを無批判に用いる」という図式に基づく批判は,(3)の非専門家には当たらないと思います。
ぼくは自然科学の専門家として,ある問題,ここでは「地球温暖化問題」ですが,に対する最初の立場として既存の権威に頼ったイデオロギー選択を自らの価値選択で行ったとしても,そのイデオロギーの選択を自覚的に行ったことと科学的真実の探求を別個に行うことができます。実際に勉強・研究をしていく過程で,もしそれが間違いであると自ら気づく,あるいは後々の検証によって明らかになれば,その時点での自らの立場のどこが間違っていたか明示的に理解することができ,かつイデオロギー的にも修正が可能だと思っています。
これはナイーブな考え方かもしれませんが,自然科学の専門家としての自負心とかいうよりも,専門家としてそうでなければならない,という強迫観念のようなものです。
ですので,「権威に頼る」ことが最終的な立場の決定ではないわけです。
以上のことから,自然科学の諸問題について「権威に頼るという態度は良くない」という発言があった場合,言われているほうが権威に頼ってその諸問題に対する科学的主張をしているなら批判されるべきですが,科学的主張でない価値判断の表明の場合は権威に頼る態度は批判されるべきものではありません。
しかし,専門外の自然科学の専門家として,地球温暖化問題の科学的詳細について分からないのもなんだかフラストレーションがたまるし,理解できるものなら理解したい,じゃあ勉強してみよう,ってなところな最近です。ほかにもいろいろ書きたいことはあるのですが,次の機会にします。
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