2008年4月1日火曜日

言葉に対する感性

帰りの飛行機の中で,とある新聞を読んでいたのですが,そのとある新聞のとある記事の文章にどうしても腹が立つことがありました。

それは一面の下のほうに大概あるコラムで(なんでどの新聞も下のほうにくだらないコラムがあるんですかね。とかいいつつ楽しんで読んじゃうけど),アーサー・C・クラークの訃報に関する記事でした。

アーサー・クラークと言えば20世紀を代表するSF作家の一人で,アジモフ,ハインラインと並ぶ三大SF作家です。ぼくは恥ずかしながら他の二人に比べてクラークはそれほど読んでませんが…

いずれにせよ,このコラムはアーサー・クラークの作品の主題である科学技術と進化と,なぜか地球温暖化を絡めて何か書いているわけです。

でも,支離滅裂。何が言いたいか分からん。なんとか温暖化を止めようね,ということらしいけど。

んで,その意味不明な文章の中で,ネズミに道具を使うことを学ばせたという最近の理化学研究所の研究にも言及しているのですが,ここでぼくが猛烈に腹の立つ文章が書かれていました。

いわく,

「(ネズミも道具を使えることが分かった)…道具の使用は特別な能力ではない、などと言われると、残念な気がするのは人類のおごりだろうか

…おごりです。

なんだろうね,この,

「おごりだろうか,そうとは言えないだろう,みんな。だって人間ってどんな動物よりもはるかに優れた存在でなければならないからね」

と言っている文章は。

これがね,

「…道具の使用は特別な能力ではない,などと言われると,残念な気がするのは人類のおごりであろう

と書いてあったら,ふむふむ,なんか筆者の思想には問題あるけど,そこを自覚するだけのバランス感覚はあるじゃないか,と(上から目線で笑)理解することが出来る。

あるいは,

「…道具の使用は特別な能力ではない,などと言われると,残念な気がするのは私のおごりだろうか

と書いてあったら,あぁ,バカなヤツだな,これ書いたヤツは,で終わりです。

でも何なんだ,この時代錯誤もはなはだしい,かつ知性も知識も乏しい文章は?? 

問題点は三つ。

(1)このコラムを書いたヤツは,鳥や類人猿も道具を使うということを知らない。 道具を使う生物の実例はたくさんある。つまり,「道具の使用」は特別な能力ではない。そんなことも知らない。
(2)そして,あたかも人類を代表しているかのような論調で,「道具を使う」という人間の優位性(優位性じゃないんだけど)が失われるのは悲しいことである,という前提を置いている。
(3)自分の偏狭な思想を人類に普遍の思想だと思っている。

つまり,この筆者には科学の理解もなければ,生物の多様性の知識も無いし,思想のバランス感覚もない。加えてもっともチープな意味での人間至上主義が存在しているのです。

「人間は,道具も使えれば,火も使えるし,他の動物に出来ないことをやってのける,地球上でもっとも優れた生き物です。」

アホか。生物に優れているとか劣っているとかあるかい。仮に劣ったところがあれば絶滅しているはずだし,そういう意味では存在している生き物は全部等しく優れているんだよ。

多分「人間が進化の頂点にいる」というダーウィンの進化論のベタな間違いを犯しているのでしょう。

そんな程度の知識でなぜアーサー・クラークの訃報に関する記事を大新聞のコラムに書けるのだ?

まったく腹立たしくてならない。

こんな程度の認識のやつばらが大新聞のコラムを担当できるほどの地位に居る記者なんだから,ヘコむよね。日本の科学技術立国化がぜんぜん進まなくて,進むのは若年層の理系離ればかり,という状況は当然です。

・・・・・・・・・・・・・・・

まぁ,たいしたことじゃないからいいじゃないか,と思う向きもあるかもしれません。きっと忙しい最中に書いているんだから,推敲が足らなくて真意が伝わってないんだよ,と。

しかし,腹が立つものは腹が立つ。この文章から読み取れるものはぼくにとって腹立たしい思想ばかりであり,それがかなりの度合いの腹立たしさなのです。

そして,これがぼくの言葉に対する感性です。

だから一部の言葉をぞんざいに使う人間にもすごく腹が立つのだな。そういう人はぼくが怒っても,何で怒っているのか理解できないことが大半ですが。まさにその言葉に対する感性の違い,いや欠如のゆえに。

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