2008年4月28日月曜日

哲学の話に

関連するけど(するのか?),竹内薫が嫌いです。すごく嫌いです。

・ファイヤアーベントの焼き直しなのが嫌です。
(ファイヤアーベント自身は好きです。自伝もすごく面白い)

・アカデミズム批判をするわりには,マッギル大で素粒子の博士号を取得したことを(文脈に関係なく)書いたりするところが嫌です。

・専門家向けジャーゴンを無意味に使って実際以上の価値を見せようとするところが嫌です。例えば一般向けの書物の中でファインマンダイアグラムをさもすごいことのように書いたりする,など。
(ファインマンダイアグラムは無限級数をどう収束させるか視覚的に調べる道具であって,発明したファインマンはすごいけど,使わない人がそれを見せられても『あぁ,この項を拾ったんだな』なんて分かるワケが無いので,意味が無い)

・(文化)相対主義を主張するところが嫌です。
(相対主義を○○帝国主義(例えば『物理』とか『還元主義』とか『唯物論』とか)に傾きがちな論調のバランスをとるために用いているなら良いのですが,どうもアカデミズムや純粋科学に対するルサンチマンからのような気がしてなりません。)

・巨人ファンなところが嫌です。

ただし,竹内薫はメディアを利用することによって科学リテラシーの普及に努めているので,そこはすごく評価します。今のところアカデミズムの中でしか行動していないぼくは,自分の果たすべき役割を果たしていないのが事実ですから,忸怩たるところです。

痛み

お,思い出しました。

前回の記事で「痛みを探求」とか言ってましたけど,つまりこれは「痛みのクオリア」を何とか捉えてみようと試みていたということです。

「クオリア」って言葉が出てこんかった。

ダニエル・デネットは「クオリア」は認知科学に不必要な概念だと主張しているけど,確かに他者についてお互いのクオリアを交換する方法が現在のところ無いわけだから,クオリア自体を探求することに意味は無いかもしれない。でもそれはぼくの無知ゆえの感想であって,認知科学の最前線では活発な議論があるのだろうな。勉強したいけど,時間が無い,つまり能力が無い…

大学の初年度の頃はカント→フッサールという観念論→現象学が好きでした。意識や本質というものに関しては不可知論に近い立場だったわけですね。

今はどうかっていうと,あんまり変わらないな。ただ,不可知論は思考停止なので,よっぽどのことが無い限り選択しません。(文化)相対主義は憎悪を感じます。強い独我論はアホだと思います。

「私は独我論が真実だと思うんですけど,先生,どう思われます?」

とバートランド・ラッセルに質問した方が居たとか居ないとか。

客体の存在はほぼ無条件で真だと考えて,人間は主観的な方法のみでしか客体に迫ることしか出来ないことを認めつつ,過度に主観に価値を置かない。でも客体が何であるか知りたいので,主観と客観のぎりぎりのところを追い詰めて客体を捉えたい。そのために行う極めて誠実なアプローチこそが,科学だと思っています。だから科学をやっております。

いずれにしても,実のところ,哲学的なことを考える余裕があんまりないんよ。

2008年4月26日土曜日

げき☆つう

正確には一昨日の夜,激痛は突如来た。

この歯の痛みはね,最高級です。いままでいろいろと痛い思いをしてきましたが,ここまで痛くて耐え切れないのははじめてかも知れん。あまりに痛くて腹が立ち,夜中叫びましたからね。

次の日も痛かったんだけど,授業の間とか仕事している間はそれなりにこらえられる。痛みも弱いような気がする。緊張しているからなのかなぁ。

でもですね,夕飯を食べに行ってほっと座ったとたん,猛烈な激痛です。脂汗…。何で痛いのを我慢すると脂汗が出るんだ?意味が分からん。

あ,あと,痛いって感覚は痛い以外の何物でもないですね。痛いのを我慢しながら,痛いというのはどういう感覚なんだろう,と自ら探求してみるのですが,痛みに耐えるのみで「あー,痛いなぁ。腹の痛さとは違うなぁ」ぐらいしか分からず。夜になると目が見えなくなるし,早く解放されたい~という感覚しかありません。

んで,歯医者に駆け込み,緊急神経除去開始。怖いなぁ,と思いつつ,麻酔をされ,歯医者さんの

「痛かったら左手を挙げてくださいね~」

に「挙げても無視するのでは?」という恐怖。

がりがりやった後に,歯科助手さんが

「では神経抜きますよー。これ持って下さいね~」

とケーブルのついた変な棒を左手に持たせてきました。その瞬間,

「えー,こいつを左手に持たせるということは,ぼくはもはや痛みを主張することもまかりならんということか? 痛かったらこいつを思い切り握って耐えろ,という意味か?」

と恐慌に陥りました。

でも違いました。アースでした。今って,電気で神経を焼き切る?のね。

ぴっ,ぴっ,ぴっ,ぴー

となった瞬間に歯の中にある導線にぴりりと電流が流れます。

ほとんど痛くありません。でも痛くないわけでもない。なんか嫌な痛さ。前フリの「ぴっ,ぴっ,ぴっ」って音があるから「次ピリッと来る!」と覚悟できるので,これはいいですね。きっとこの音は装置の機能としては何の意味も無いだろうけど。

きっとこの神経を除去する新しい装置を開発したときに,

「これ音が無くていきなりピリッと来るとイやですね」
「じゃあ,機能としては意味ないですけどビープ音付けますか」

とか決まったんだろうな。

まさに人間工学。

そして,おかげさまで今日はほとんど痛くありません。歯医者も進歩している…

2008年4月24日木曜日

どうでもいいこと

ですが,

「海豚」が「いるか」で,
「河豚」が「ふぐ」で,
「河馬」が「カバ」なのは,

なんか納得いかん。

カバだけそのまんまじゃん。

まあ「海牛」は「カイギュウ」って哺乳類(マナティとかジュゴンとか)であり,同時に「ウミウシ」って変な生き物ですがね。

中川いさみの「クマのプー太郎」にこの話題に関連した一編がありました。中川いさみの4コマ,相当好きです。

やべえ

気がつきゃ十日も何も書いてなかった…

最近アホみたいに忙しい。

「忙しそうですよね~」とか言われても自分では「えーと,忙しいですねぇ」と言いたくないので,「雑用が多いだけで,身のあることはしてませんよ」とかしか言わないのですが,いくら事実だとしても,これもなんだか嫌味だよな。

ぼくはだれかれ構わず基本的に率直にものを言うので,人に拠っては怖いだろうな,と思います。

どうも「食べられる感」(?)「呑まれる感」(?)がするらしい。

結構小心者ですよ。

2008年4月14日月曜日

疲れた

今日は朝から宇部のホテルでプロジェクトの研究会。疲れたなぁ…

終了後,プロジェクト参加企業の人と測定についての打ち合わせ。4月の終わりに出張することが決定。試料作らなきゃ…

その後,懇親会には参加せず学校に戻って学科会議に出席。…とは言え,大幅に遅刻したので会議室に入って10分後に会議終了~

でした。

2008年4月13日日曜日

タブーと教育

勉強があまり出来なくて,かつコミュニケーションにも問題のある子達が結構います。

ぼくは医者ではないので,診断することはもちろん出来ませんが,しかし直接対応する教員として,その子がマジョリティ側のコミュニケーション法をとっている子なのか,マイノリティ側のコミュニケーション法をとっている子なのかは判断しなければならないと考えています。

そして,それはその子を「○○障害」であると判断することと同じです。

おそらくぼくはマジョリティ側なので,マイノリティ側の子に分かるようにコミュニケーションのやり方を変える必要があるのは自分だと思っているからです。

そのとき,ぼくは例えば「この子はアスペルガー症候群かもしれない」として対応するわけです。

しかし,このようなやり方は現在の日本では危険性を含んでいます。なぜなら,日本ではある人を精神的に普通ではないとすることは強いタブーとなっているからです。つまりその言われた子はおろか,言った人間も偏見を持たれる可能性が強い。

つまり誰もが「この子は普通(=マジョリティ)ではない」と思っていても,普通の子ととして扱うのが無条件に是であり,その子を特別に扱う人間(ここではぼく)は偏見を持っているとみなされ,「彼は差別主義者だ」と思われる。

だから,例えばぼくが学科の会議などで「○○君は広汎性発達障害であることも視野に入れてコミュニケーションを図るべきです」などと発言しようものなら,理解してくれる人もいるかもしれないが,みんな「こいつは危険なヤツだ」と思われるのが関の山でしょう。口にすること自体がタブーです。

しかしぼくはまったくタブーだと思わないし,むしろマイノリティの子たちにはマイノリティの方法で対応すべきだと常に思っています。そもそも差別も偏見も無いし。ですが,どうもそういう認識は少数らしい。

ここでぼくが問題だと思うのは,ほとんどの大学教員が発達障害や精神疾患に関してあまりに無知だということです。そして,そのようなことはすべて専門家の領域だと思っている。

もちろん,精神疾患の治療に関しては医師や専門家が行うべきです。しかし,発達障害に関しては教育に携わる人間のすべてが知識を持っていなければならないとぼくは考えます。

なぜなら,発達障害,ここでは主にアスペルガー症候群や軽度の自閉症を念頭においていますが,そのような子達がマイノリティなコミュニケーション法をとったとき,知識がなければこちらはそれを理解できないからです。そもそも発達障害の「障害」はその子達がマジョリティ側とかかわる際の「障害」です。

もちろん,きわめて良心的な人は,直感と経験から適切にコミュニケーション法を相手に合わせることが出来るでしょう。それでも知識があったほうがより適切に対応できるはずです。

これは相手が発達障害だと決め付けることを含むわけではありません。仮にその子が最終的に発達障害というレベルまでコミュニケーション困難ではなかったとしても,教育者側がコミュニケーションのやり方の幅を持っていることは何もマイナスにはなりません。

そんなことを考えて,試みに近くの人に話したりもしますが,なかなか認識が共有されることはありませんな。不満。

2008年4月9日水曜日

授業開始一日前で,こっちと東京で授業時間のずれがあって,学生が困る状況が勃発するという事実が浮上。

事務にその授業の時間調整のことで対応を尋ねたら,教務幹事を通せとか言いやがった…

そこを段取り踏んで,ぼくからの要請を一時的に回避することに何の意味があるか分からん。ぼくが言ったって教務幹事が言ったって,てめーらがする仕事は変わらんだろうが。

本部にどうすれば良いか対処を聞けば良いじゃないか。そもそも何で担当のぼくがその事情を授業始まる直前まで知らないんだ?

何のための学務課なんだ?

仕事しろや。。。

ここで解説しよう。ぼくの人間関係に関する基本的指針は以下のとおりである。

(1)初対面・初めて一緒に仕事をする人に対しては,

(a) まず礼節をつくす。
(b) 自分で出来ることはして,補完できることはして,相手の負担を最低限にするように対処する。
(c) どんな立場の人でも相手が上に立つように行動する。
(d) していただいた仕事には小さなことでも必ず最大級のお礼をする。
(e) 頼まれたことは,相手が何もしなかったとしても全力でやる。

このように行動した結果,大概は相手も自分も気持ちよく仕事が出来るようになる。そこから先はすごーく仕事がしやすい。人間的な信頼関係も生まれる。そこに甘えずほどほどの礼儀を保ったまま進んでいく。

(2)ただし,たまにどうしようもなく,無能かつ感性の欠如した人間が居て,

(a) 付け上がり,
(b) 自分が上だと勘違いする,か
(c) こいつは頼めばホイホイ仕事をするお人好しだ,と勘違いし,
(d) 自分の仕事を押し付ける,あるいはぼくが頼んだ仕事の優先順位を大幅に下げる。

という対応をとり始めるヤツがある。

あるいは,最初から仕事を回避することを身上(信条)としているヤツがいる。こういう場合どうするか。

・・・・・・・・・・・

私は,徹底的に,やり返します。具体的に言うと,ありとあらゆる手段,例えば権力を悪用してでも,つぶします。辞めさせます。恫喝も厭いません。自分の愚かさ・無能さを思い知らせてやります。組織に無能な人間は要りません。

ちなみに,この覚悟をした場合,たぶん命のやり取りまで考えます。ありていに言えば,刺し違えてでも相手を殺す覚悟でやります。もちろん,同時に自分は助かるようには策を練ります。

・・・・・・・・・・・

さて,この事務のアホの次の対応はどんなであろうか。それ次第によっては,残念な結果となることでしょう。

あー,なんかブログで怒りを発散してしまった。軽く自己嫌悪。

2008年4月8日火曜日

学校が始まると

なかなか書く余裕がなくなってくるね,やっぱり…

今年度の学会の予定:

6月終わり・・・ILCC 2008 チェジュ
9月半ば・・・液晶討論会 京都 申し込み:5月21日(水)~6月4日(水)
12月はじめ・・・IDW’08 新潟 アブスト締め切り:6月27日
来年3月終わり・・・応物 場所不明

いやー,最後以外は三ヶ月ごとだね。恐ろしい。
こうやって整理してみるとIDWの締め切り直後にチェジュ行きじゃん…

2008年4月6日日曜日

悲しみ

「ぼくはガーデニング王子」

ダメだ,涙が止まらん。鼻水になる。

9歳の時って最初に世の中に怖いものがなくて,楽しいものばかりである年齢な気がする。

小さいときは怖いものが多い。大人になると諦めと成熟で怖いものを抑えて生活できる。

ぼくの9歳の時は,弟可愛さのあまり小学校に連れて行ってしまったりして,学校関係者や親の迷惑省みなかったほど,ある意味自分勝手に楽しく行動していた。担任の先生から「ナルニア国物語」を借りて初めて「長い読書」というものをしたのもこの歳だった。

その弟に骨髄移植したのも同じ9歳のときだった。事前の検査で「HLA型が一致する確率は兄弟でも四分の一」と言われたけれど,一致することに何の疑いもなかったし,移植自体もまったく怖くなかった。入院生活はむしろ楽しいことばかり覚えている。もちろん,ある日隣の部屋の子が居なくなっていることもあったけど…

それからだんだん人間関係とか社会とか怖いものが増えていった。 そして27,8過ぎてから,いろいろなことを経験しすぎて,逆に怖いものがあんまりなくなってきた。でも,それは9歳の頃の「怖いもの知らず」とはぜんぜん違う。もちろん,毎日楽しく過ごしてはいるけれど,あの頃の「全能感」は無い。

だから,この子が畑仕事が楽しくて楽しくておこずかいを全部苗木に使ってしまったのもすごく良く分かる。

ぼくも,ばあちゃんちで畑仕事ばかりしていたことも良く覚えている。 それも,9歳の頃だったと思う。

なんて,悲しみなんだろう。

先日桜が咲いてない,とか言いましたけど,咲いてました。

昨日,夕飯を食べた後,先生とSわくんと近くの竜王山という桜の名所に言ってきました。

夜だというのに,またまだ肌寒いというのに,ちらほら夜の花見客が…もちろん東京に比べれば人も少ないし穏やかなものですが。しかも桜によってはもう3割がた葉桜に。

夜なので桜を楽しむというより夜景を楽しんでしまいました。竜王山の頂上から見る夜景はきれいでした。写真撮ろうかと思いましたが,すいません,やめました。

結構灯りが多くて,都会な感じがするけど実はねー,工場の灯りが多いんだね,これが。さすが工業都市。

2008年4月4日金曜日

お腹が減ると

不機嫌になるのは誰しもそうですが,空腹に限らず,ある人が不機嫌になったときその不機嫌の理由と程度で人の器が計れるような気がします。

まあ,「不機嫌の程度」ってのも「人の器」ってのも数値化は出来ないんだから,それで人の器をはかるといったところで結局八つ当たりくらったときの腹いせにしかならないんだけど。

でもねー,食欲に限らず自分の欲求を我慢できない人がいると,やはり周りは困るよね。

ぼくの場合,例えば空腹時は不機嫌になるというより元気がなくなり無口になります。睡眠欲は結構耐えられます。それよりも重度のニコチン中毒による喫煙欲求がやばいです。

ある若かりし頃,タバコを吸わずに7時間動き回っていたら,なんだか視界が狭いし世界は暗いしぼんやりするし,どうしたことだろうと思って,何とかしてタバコを吸ったら,とたんに視界が晴れて,そのとき

「自分ってヤバいな」

と思いました。

しかしですね,そのときもそれほどイライラとか不機嫌にはなりませんでした。…でもこれはぼくの器が大きいってことじゃないよ。

ぼくが不機嫌になるのは嫌いな人間とコミュニケーションをとらざるを得なくなったときです…これは無理。絶対無理。我慢できません。相当不機嫌になります。

思うに,空腹時には不機嫌になるけど,嫌いな人間とそれなりにコミュニケーションとれる人よりも,空腹時に不機嫌になることは無くても,嫌いな人間と会うと不機嫌になる人のほうが,人の器が小さいと思います。つまりぼくね。

ちなみに,我慢できない人を見てぼくがもっとも嫌悪感を感じた欲は,性欲です。その人間が周囲に巻き起こし,未だに尾を引いている人間関係の混乱に巻き込まれて非常に腹が立ちました。

性欲そのものを否定する気は毛頭ありませんが,自分勝手な性欲ほど下品なモノは無いな,と実例を見てつくづく実感しました。

1年経過

朝突然うちの先生に

「おめでとうございます!」

と言われ,何のことやら?と思っていたら,今日でちょうど赴任してから1年らしい。おぉ,そうなんだ。

月並みな表現ですが,この1年長かったような気もするし,短かった気もします。

液晶も知らなければディスプレイに興味もなく,ビジネスや特許の知識も皆無,そして実験物理の経験も無いところからはじめて,あたふた何とかこなしながら,いまだに手探りな毎日でござる。

思えば,1年前,突然話が決まるまでは酒屋でバイトをしようかと思っていました。漠然とどっかポスドク探さなきゃなぁ,と。

もちろん,いまだ将来が安定しているといえるかと言うと程遠いし,自分の性向から安定しようと思っているのかはなはだ心もとないので,その頃の「食いつながないとまずいぞ」心情と今とさほど変わりは無いのだけど,今こうして生活できるのは,やっぱり・・・・

みなさんのおかげです。

どうもありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2008年4月2日水曜日

今日は

なんだか鼻が利かないなぁ,と思っていたら,今シーズン最多の花粉数がカウントされているのを見ました。それでも先週の関東に比べれば5~10分の1なんですが。

まさかこっちはこれから最盛期なのかなぁ? 確かに桜もまだ咲いてないし…ヤだなぁ

副業に行ってまいります。

2008年4月1日火曜日

言葉に対する感性

帰りの飛行機の中で,とある新聞を読んでいたのですが,そのとある新聞のとある記事の文章にどうしても腹が立つことがありました。

それは一面の下のほうに大概あるコラムで(なんでどの新聞も下のほうにくだらないコラムがあるんですかね。とかいいつつ楽しんで読んじゃうけど),アーサー・C・クラークの訃報に関する記事でした。

アーサー・クラークと言えば20世紀を代表するSF作家の一人で,アジモフ,ハインラインと並ぶ三大SF作家です。ぼくは恥ずかしながら他の二人に比べてクラークはそれほど読んでませんが…

いずれにせよ,このコラムはアーサー・クラークの作品の主題である科学技術と進化と,なぜか地球温暖化を絡めて何か書いているわけです。

でも,支離滅裂。何が言いたいか分からん。なんとか温暖化を止めようね,ということらしいけど。

んで,その意味不明な文章の中で,ネズミに道具を使うことを学ばせたという最近の理化学研究所の研究にも言及しているのですが,ここでぼくが猛烈に腹の立つ文章が書かれていました。

いわく,

「(ネズミも道具を使えることが分かった)…道具の使用は特別な能力ではない、などと言われると、残念な気がするのは人類のおごりだろうか

…おごりです。

なんだろうね,この,

「おごりだろうか,そうとは言えないだろう,みんな。だって人間ってどんな動物よりもはるかに優れた存在でなければならないからね」

と言っている文章は。

これがね,

「…道具の使用は特別な能力ではない,などと言われると,残念な気がするのは人類のおごりであろう

と書いてあったら,ふむふむ,なんか筆者の思想には問題あるけど,そこを自覚するだけのバランス感覚はあるじゃないか,と(上から目線で笑)理解することが出来る。

あるいは,

「…道具の使用は特別な能力ではない,などと言われると,残念な気がするのは私のおごりだろうか

と書いてあったら,あぁ,バカなヤツだな,これ書いたヤツは,で終わりです。

でも何なんだ,この時代錯誤もはなはだしい,かつ知性も知識も乏しい文章は?? 

問題点は三つ。

(1)このコラムを書いたヤツは,鳥や類人猿も道具を使うということを知らない。 道具を使う生物の実例はたくさんある。つまり,「道具の使用」は特別な能力ではない。そんなことも知らない。
(2)そして,あたかも人類を代表しているかのような論調で,「道具を使う」という人間の優位性(優位性じゃないんだけど)が失われるのは悲しいことである,という前提を置いている。
(3)自分の偏狭な思想を人類に普遍の思想だと思っている。

つまり,この筆者には科学の理解もなければ,生物の多様性の知識も無いし,思想のバランス感覚もない。加えてもっともチープな意味での人間至上主義が存在しているのです。

「人間は,道具も使えれば,火も使えるし,他の動物に出来ないことをやってのける,地球上でもっとも優れた生き物です。」

アホか。生物に優れているとか劣っているとかあるかい。仮に劣ったところがあれば絶滅しているはずだし,そういう意味では存在している生き物は全部等しく優れているんだよ。

多分「人間が進化の頂点にいる」というダーウィンの進化論のベタな間違いを犯しているのでしょう。

そんな程度の知識でなぜアーサー・クラークの訃報に関する記事を大新聞のコラムに書けるのだ?

まったく腹立たしくてならない。

こんな程度の認識のやつばらが大新聞のコラムを担当できるほどの地位に居る記者なんだから,ヘコむよね。日本の科学技術立国化がぜんぜん進まなくて,進むのは若年層の理系離ればかり,という状況は当然です。

・・・・・・・・・・・・・・・

まぁ,たいしたことじゃないからいいじゃないか,と思う向きもあるかもしれません。きっと忙しい最中に書いているんだから,推敲が足らなくて真意が伝わってないんだよ,と。

しかし,腹が立つものは腹が立つ。この文章から読み取れるものはぼくにとって腹立たしい思想ばかりであり,それがかなりの度合いの腹立たしさなのです。

そして,これがぼくの言葉に対する感性です。

だから一部の言葉をぞんざいに使う人間にもすごく腹が立つのだな。そういう人はぼくが怒っても,何で怒っているのか理解できないことが大半ですが。まさにその言葉に対する感性の違い,いや欠如のゆえに。