2008年4月13日日曜日

タブーと教育

勉強があまり出来なくて,かつコミュニケーションにも問題のある子達が結構います。

ぼくは医者ではないので,診断することはもちろん出来ませんが,しかし直接対応する教員として,その子がマジョリティ側のコミュニケーション法をとっている子なのか,マイノリティ側のコミュニケーション法をとっている子なのかは判断しなければならないと考えています。

そして,それはその子を「○○障害」であると判断することと同じです。

おそらくぼくはマジョリティ側なので,マイノリティ側の子に分かるようにコミュニケーションのやり方を変える必要があるのは自分だと思っているからです。

そのとき,ぼくは例えば「この子はアスペルガー症候群かもしれない」として対応するわけです。

しかし,このようなやり方は現在の日本では危険性を含んでいます。なぜなら,日本ではある人を精神的に普通ではないとすることは強いタブーとなっているからです。つまりその言われた子はおろか,言った人間も偏見を持たれる可能性が強い。

つまり誰もが「この子は普通(=マジョリティ)ではない」と思っていても,普通の子ととして扱うのが無条件に是であり,その子を特別に扱う人間(ここではぼく)は偏見を持っているとみなされ,「彼は差別主義者だ」と思われる。

だから,例えばぼくが学科の会議などで「○○君は広汎性発達障害であることも視野に入れてコミュニケーションを図るべきです」などと発言しようものなら,理解してくれる人もいるかもしれないが,みんな「こいつは危険なヤツだ」と思われるのが関の山でしょう。口にすること自体がタブーです。

しかしぼくはまったくタブーだと思わないし,むしろマイノリティの子たちにはマイノリティの方法で対応すべきだと常に思っています。そもそも差別も偏見も無いし。ですが,どうもそういう認識は少数らしい。

ここでぼくが問題だと思うのは,ほとんどの大学教員が発達障害や精神疾患に関してあまりに無知だということです。そして,そのようなことはすべて専門家の領域だと思っている。

もちろん,精神疾患の治療に関しては医師や専門家が行うべきです。しかし,発達障害に関しては教育に携わる人間のすべてが知識を持っていなければならないとぼくは考えます。

なぜなら,発達障害,ここでは主にアスペルガー症候群や軽度の自閉症を念頭においていますが,そのような子達がマイノリティなコミュニケーション法をとったとき,知識がなければこちらはそれを理解できないからです。そもそも発達障害の「障害」はその子達がマジョリティ側とかかわる際の「障害」です。

もちろん,きわめて良心的な人は,直感と経験から適切にコミュニケーション法を相手に合わせることが出来るでしょう。それでも知識があったほうがより適切に対応できるはずです。

これは相手が発達障害だと決め付けることを含むわけではありません。仮にその子が最終的に発達障害というレベルまでコミュニケーション困難ではなかったとしても,教育者側がコミュニケーションのやり方の幅を持っていることは何もマイナスにはなりません。

そんなことを考えて,試みに近くの人に話したりもしますが,なかなか認識が共有されることはありませんな。不満。

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